花未眠的真·原文 花は眠らない

花未眠的真·原文 花は眠らない


2024年4月10日发(作者:战地模拟器正版手游)

Typed by Aberu

花は眠らない

ときどき、なんでもないことを不思議に思ふ。昨日、熱海の宿に着くと、床の花とは別

に海棠の花を持って来てくれた。疲れてゐるので早く寝た。夜なかの四時に目がさめた。海

棠の花は寝ってゐなかった。

花は眠らないと気がついて、私はおどろいた。夕顔や夜来香のやうな花もあるし、朝

顔や合歓のやうな花をあるが、たいていの花は夜畫咲き通しである。花は夜眠らない。わ

かりきったことだが、初めてはつきりさう気がついて、夜なかの四時に海棠の花をながめる

と、なほ美しく感じられた。命いっぱい開いてゐる、せつない美しさが感じられた。

花は眠らないと、わかりきったことも、ふと花を新しく見る機縁となった。自然の美は限

りがない。しかし人間の感じる美は限りがある。人間の美を感じる力は限りがないゆゑに、

人間の感じる美は限りがあるとも言へ、自然の美は限りがないとも言へる。少なくとも、一

人の人間が一生のあひだに感じるびは限りがあり、たかの知れたものである。これは私の

実感であり、歎声である。人間の美を感じる能力は、時代とともに進むものでもないし、年

齢につれて加はるものでもない。夜なかの四時の海棠もありがたいとしなければならない。

一輪の花が美しいならば、生きてゐようと、私はつぶやく時もある。

畫家のルノアアルは、少しばかり進歩すると、それだけ死に近づくといふことは、なん

とみじめなことであらうと言ひ、また、私はまだ進歩することを信じてゐるといふのが、最後

の言葉であった。ミクランゼロの最後の言葉も、やうやくものが思ふやうに現はせる時が来

ると、死だ。ミケランゼロは八十九歳であた。彼のデス・マスクからつくった顔を、私は好き

Typed by Aberu

である。

美を感じる能力は、あるところまで、むしろ進みやすいものと思ふ。頭だでではむづか

しい。美に出会ふことであある。親しむことである。その重なりの訓練であるが、しかし例へ

ばただ一つの古美術品が、美の啓示となり、美の開眼となることは実に多い。それが一輪

の花でもよいわけだ。

床の一輪ざしの花を見て、これと同じ花が自然に咲いてゐる時、このやうによく見ただ

らうかと、私は考へてみることがある。一輪だけ切り離して、花立に入れ、床に置いて、はじ

めて花をよく見る。花に限らない。文学について言っても、だいたいに今日の小説家は、今

日の歌人のやうに自然をよてゐないだらう。よく見る折が少いだらう。また、床に花をいけ、

その上に花の絵をかけたとする。ほんたうの花に美しさの劣らぬ絵は、無論さうはない。こ

の場合、絵がつまらないと、ほんたうの花の美しさが引き立つ。花の絵が美しくても、ほん

たうの花の美しさはなほ引き立つ。しかし私たちは花の絵を念入りに見るやうには、ふだん

ほんたうの花をていねいに見ないで過ごしてゐる。

李迪でも錢舜擧でも、宗達でも光琳でも、御舟でも古經でもよいが、花の絵からほん

たうの花の美しさを教へられることは多い。花に限らない。私はこのごろ仕事机の上に、ロ

ダンの女の手とマイヨオルのレダと、小さいブロンズを二つ置いてゐる。これだけで見ても、

ロダンとマイヨオルとはずゐぶんちがふ。しかし、ロダンから手の表情を、またマイヨオルか

ら女體の筋肉を、いろいろ知らせられる。よく見てゐるものだとおどろく。

私の家で犬が子を産んで、仔犬がよちよち歩き出したころ、一匹の仔犬のふとした姿

を見て、私ははつとしたことがあった。なにかとそっくりの姿だ。宗達の仔犬とそっくりなの

だと気がついた。あの宗達の春草の上の方に仔犬が一つゐる、水墨の仔犬の姿である。


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